はたけものがたり 内藤とうがらし

私の調べた「内藤とうがらしの歴史」を、ご高覧下さい。内藤新宿(Wikipedia)
私は、最初に江戸に入った内藤清成侯を柱に組み立てました。
1590年代、加藤清正が朝鮮出兵の際、持っていったのがとうがらしで、これが朝鮮の人達に受け入れられました。
種子島から島津藩を経て、織田、豊臣へ。家康の部下によって、江戸へというのが私の筋書きです。
このように考えると、内藤新宿は江戸発祥の地でもあるわけです。私たちは、新宿という地名に惑わされ、1698年の宿場開設を新宿の原点と考えていましたが、見直そうと思っています。今の所私だけのようですが、内藤とうがらしが見直しを応援してくれると期待しています。

(2010年12月 風・みどり・水・ネット 新宿区議会議員 根本二郎)


食料自給率の向上へ江戸東京野菜

   「内藤とうがらし」を新宿で復活させよう!


内藤とうがらし(Mogu&Goma Saien)2007年に起きた中国の冷凍ギョウザ事件は、私たちに「食の安全・安心」について警鐘を鳴らしました。食料自給率が40パーセントを切る国は、先進国では日本をおいて他にないことも知らされました。それ以来、「食の安全・安心」「食料自給率を高める」運動が盛んになってきています。
スローフード江戸東京」というグループの皆さんは、江戸時代の野菜を研究し、この新宿は「内藤とうがらし」で「赤い絨毯」のようだったと指摘し、その復活の活動をしています。食料自給率を向上させる運動として「内藤とうがらし」の栽培と「緑提灯」を皆様に呼びかけます。

「内藤とうがらし」は江戸野菜の元祖
1590年(天正18年)4月、徳川家康が、豊臣秀吉と共に小田原城の北条を攻めている時、三河以来の家来、内藤清成は一足早く江戸へ向かい、江戸を収めた。
当時江戸は、関東の寒村で民家はわずかに散らばっている状態。山岡荘八の「徳川家康」の小説では、「荒れるに任せた掻き揚げ城で、東南は裾近くまで波に洗われ、東から北は一面の雑木ばやし、西北は水の腐ったため池にて、このままでは何とも使い用のない狐狸の棲でござる」「国府路こうじ(麹町)あたりに点々と人家があるほかは人家がなく・・」と記されている。
江戸城の東南は海。甲州・日本海側に武田勢など強力な勢力があった。
内藤清成は、甲州方面からの攻撃に備え、騎馬兵と鉄砲百人組を引き連れ、四ツ谷から大久保にかけて、広大な陣地を守った。
百人組与力25人を内藤新宿の地(現新宿1丁目、2丁目周辺)に住まわせ、他の鉄砲組員を現在の百人町、大久保に配置した。
当時、四谷・大久保は、荒涼とした台地で、民家もなく食糧自給をやむなくされた。この時内藤清成が、家来たちに作らせたのが「かぼちゃととうがらし」だった。

「カボチャととうがらし」はどこから伝来したか
1542年の種子島に南蛮船が漂着。この船にポルトガル人が乗り合わせていた。このポルトガル人は鉄砲と共にかぼちゃととうがらしを積んでいた。カボチャととうがらしは原産地が中南米で、1500年前後に中南米からポルトガルへ持ち込まれていた。カボチャは栄養価の高い食物として、とうがらしは薬草として入ったに違いない。種子島の城主は鉄砲を2丁購入。一緒に「とうがらし」「かぼちゃ」も伝わった。
島津藩を通じ、織田信長により大阪へ。鉄砲の伝来により、いくさの様子は一変する。鉄砲をいち早く導入したものが天下を取った。豊臣秀吉を経て、岡崎の徳川家康へ。
内藤清成は、江戸平定に向かう際、服部半蔵鉄砲百人組を家康から授かった。こうして、鉄砲と共にカボチャととうがらしが江戸に伝わった。カボチャは栄養価の高い食物として、とうがらしは薬草として重宝されたに違いない。こうして、新宿御苑一帯は夏から秋にかけて八房系と呼ばれる、とうがらしの「赤いじゅうたん」が敷き詰められた。
1625年には薬の問屋街,薬研堀の「中島商店」が「薬研堀七味とうがらし」の販売を始めた。とうがらしは「内藤とうがらし」を使った事が記されている。
江戸時代初期に栽培された内藤の野菜も次第に都市化で郊外に移り、新宿界隈からは消えてゆくことになる。明治に入り、内藤藩の屋敷は農事試験場となり、数々の近代野菜を産出。現在は新宿御苑として大勢の人を和ませてくれている。
●江戸野菜の発祥地は内藤町
このように探ってみると、江戸の野菜の発祥地は内藤町であり、最初に栽培された野菜はカボチャととうがらしと言える。江戸川の小松菜などもすでにあったが、それらは、徳川以前から作られていた作物で、地のものといえる。
この際、国産食材自給率の向上から、もう一歩進めて東京野菜を復活させ、東京の食料自給を高めることを呼び掛けたい。
東京の食料自給率を上げる運動のシンボルとして「内藤とうがらし」の復活を呼び掛ける。
●江戸のまちの起源は、内藤新宿だった。
さらに、江戸の町を最初に築いたのも内藤町であることに気づく。江戸時代以前に牛込村や四家村など小集落はすでにあった。しかし、江戸のまちを明確に意識して、築いたのは内藤清成と鉄砲百人組であった。
1590年4月。内藤清成が、家康に先だって江戸村に入り、甲州街道すじを防衛しながら、江戸城を築城していった。赤坂は湿地でため池。日比谷、有楽町、銀座は入江で当時は海だった。
新宿は比較的歴史の新しい町として定着したのは、内藤清成が江戸市中を守るために大木戸の外に陣を張ったこと。宿場町としての開設が新しかったことなどからと言える。
もう一度歴史ある新宿の町づくりを考えよう。
   (クリックすると拡大します)

  江戸

現代

江戸付近要図

提案
● 「内藤トウガラシ」でまちおこしをしよう。
区役所玄関、出張所、民間あらゆるところに協力を呼び掛け、新宿野菜のシンボルとしよう。
花と緑の街に各街路に花壇を設置し。春夏は花を。秋はとうがらしを
民有地や公有地を活用して畑を作ろう。コミュニテイガーデンとして皆で楽しもう。「内藤トウガラシ」や「緑のカーテン」を。
●新宿御苑・内藤町を江戸東京の発祥地として全国に発信しよう

内藤とうがらしの栽培


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